失敗した民主制の事をしばしば「衆愚政治」と表しますが、同義とされる「暴民政治」という言葉も存在します。
ただ、あくまで印象論ではありますが、自分の感覚では「衆愚」と「暴民」という2つの語が同義とされるのには違和感があります。
「愚か」である事は時に深刻な害を生む事がありつつも、基本的に全ての人は愚かしい部分を持つものであり、むしろ「成長」とは自らの愚かしさと真摯に向き合う所からこそ生まれるという側面もあります。
一方、「暴力」は意図的に用いる破壊手段。使う者にとっての「善悪」に関わらず、行使する事で相応の反撃を受ける覚悟が必要になります。
選挙において、例えある候補の主張が大抵の人に「愚か」と判断されるようなものであっても、その事を顕在化させるために選挙の舞台に上がる事を許容する事には、一定の理があります。
一方、最初から制度をハッキングして濫用する事が目的の行いは、国民全般に対する暴力的な攻撃も同様であり、許容できるものではありません。
今回の都知事選における「ポスタージャック」などの振る舞いは明らかに「暴民」のそれであり、排除できない時点で「侵略」を許してしまっています。
「民主主義」が、暴民によるノーリスクでの乱暴狼藉を許すための凶器として濫用される事の阻止が、選挙以外のあらゆる場面でも早急に必要で、具体的に考え動くための足場になるとも感じています。
国内で「暴力」が行使されて公の機能に害を与えているとすれば、それは既に内戦状態。危機感を持たずにはいられません。